2012年7月14日土曜日

大津市いじめ事件


最近、悲しいいじめ事件を知りました。
亡くなった子が生前されていた傷害の数々に知れば知る程、胸が痛くなります。

今は亡くなってしまった被害者の子の安息を願うばかりです。


  • 論点
この事件、テレビやネットを通して様々な考察がなされています。
その中でも、特に目に付く点があります。
それは、教育関係者の杜撰(ずさん)な対応、そして隠蔽体質です。
まさに後手後手の対応と言った感じです。
記者会見を見てるとその場しのぎの応答をしているようにも見えます。

これまでも、様々ないじめ自殺事件はありました。
その度に、被害者遺族と学校側との事件の有無について衝突があります。
いじめ事件があるたびに、またこの対立構造かと思います。


  • 対立構造の理由
では、なぜ学校組織がいじめがあったことを認めないのでしょうか。
それは、学校評価制度が大きな理由です。
つまり、学校がいじめをあったことを認めてしまえば、学校側への評価が低くなり不利益を被ることになるからです。
だからこそ、認められない。そう、認めなければならないとしてもです。

文部科学省平成15年3月20日中央教育審議会の
新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」の中に

 いじめ,校内暴力の「5年間で半減」を目指し,安心して勉強できる学習環境づくりを推進する。また,不登校等の大幅な減少を目指し,受入れのための体制づくりを推進する。

という記述があります。

これを受けて、学校は今年度のいじめ件数を報告して次年度のいじめ件数の目標値を設定する方式になりました。
当然、年月が過ぎていくほどいじめの発生件数は右肩下がりを始めました。
(参考(pdf注意):平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について
勿論、それは数字上の話であり、実際は減っていません。


  • 問題の本質はどこか
このような事実から、多くの有識者や評論家から教育現場に評価制度という競争原理を持ち込んだためこのような事件が起きるのだという論調をよく聞きます。

しかし、この論調にいささかズレを感じます。
事の本質は評価制度にあるのではないのです。
いじめという事象と評価制度とのミスマッチに本質があるように思えます。



  •  いじめゼロという前提の間違い
学校運営上、いじめは無いに越したことはないです。
文科省の評価制度からもわかるように、いじめを"ゼロ"にしようと努力しています。
しかし、普通に考えていじめはゼロにはなりません。
なぜなら、人が集団生活をする以上、いじめは常に付きまとうからです。

だからこそ、いじめゼロが当たり前という前提をまず捨てる必要があるように思えます。


  • どうすればよかったのか
いじめはあって当たり前、それは人が集団生活しているのだから。
存在して当たり前だからこそ、最悪の結果(被害者の死)を避ける策が出てくるのだと思います。
 また、学校はいじめの発生場所というだけであり、根源は別のところ(家庭環境、本人の資質など)にある場合が多数です。
本来ならば、いじめは社会全体で取り組まなければならない問題なのかもしれません。
ただ、この結論は理想に過ぎません。
実際は様々な要因が複雑に絡み合い根源は非常に見難くなっています。
その根源を突き詰めている間に被害者はどんどん追い詰められてしまいます。
美しい理想論を掲げて現実がおざなりになっては目も当てられません。
だからこそ、アメリカのようにいじめが発覚次第、警察の介入が確実な方法のように思えます。


  • 最後に
被害者が亡くなられた今では、偉そうな論調も無意味だと思います。
ただ、私達がこの事件で何かを感じ、考えされられ、意識が変わり教育現場のシステムがこども、教師両方に取って利用しやすく安心なものに変わることを願うだけです。




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