2012年12月2日日曜日

愛とは信じることではない、疑わないことである。

私達は、親子の間には愛情があると思っている。
夫婦の間にも、彼氏と彼女の間にも。
そして、どんな人間と人間の間にも愛があると思っている人たちもいる。

日本人は、神を信じていないとよく言われる。
人前で悪いことをしないのは何故かと問われると。
日本人の音としては、周りの目があるから、つまるところの世間様というものがあるからと答える。
欧米人は、違う。
彼らは、神様が見ているから、答える。
ここから見えるのは、日本人が集団との契約に対し、欧米人は神と個人との一対一の契約関係である。

その契約関係の悪い点を挙げるとすれば、日本人の場合、得てして足の引張り合いが起きやすいこと。
欧米人の場合、神が良しとすれば、殺人や戦争すら肯定できてしまう点にある。

特に我々日本人は、この神との契約関係から副生成される宗教を理由として起こる戦争を哀れんだり、 バカにしたりしがちである。

また、欧米人の一部は人間は神が作ったものと考える。進化論に正面から否定している。
果てはID理論などというものまで持ちだしている。

そういったこともあり、私達は欧米人を神なんて形のないものよく信じれるなと考えがちである。

だが、考えてみて欲しい。

私達が信じる愛というものも形がない。
なのに信じている。
多感な少女の読むコミックや小説は、愛であふれている。
POPカルチャー音楽も愛の歌で溢れている。

形が無くあるかどうかの存在証明など出来ないという点では神という存在と同義と考えられる。

もし我々があると信じている愛というものが、

実は、

支配欲や性欲や遺伝的アルゴリズムから来るプログラムの在り方だとすればどうだろう。

 そんなドライで目を背けたくなるようなものから作られているものを我々は「愛」と呼んでありがたがっているのだとしたら。

私はとてもこわいと感じる。

しかし、私は愛を否定しない。

人類の繁栄に愛が大きく貢献していることも認める。
それが、次に繋がるものだということも承知している。

 ただ、信じているものを疑うことも時として大事であり、その行為は非常に意味があると思う。


神の存在でさえ、勇気を持って疑問を持ちなさい。
神が存在するならば、愚かな恐怖心への服従よりも、根拠を立てることへの敬意に賛同されるに違いありません。トーマス・ジェファーソン






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